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「熱海」という地名を聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべられるだろうか?
慰安旅行で行く大衆リゾート、衰退する温泉地…そんな肩書きは高度成長期以降に創り上げられた、熱海のほんの一面に過ぎない。その歴史ははるかに深く重厚で、長く上流階級を魅了し続けた理由がこの地に隠されている。
熱海の歴史をひもとくと、遠く5世紀まで遡ることができる。しかし、その名を初めて広く全国に知らしめたのは、かの徳川家康。家康の2度に渡る湯治の後、御三家をはじめ諸大名の熱海詣でがはじまった。
熱海の魅力は、明治維新後、時の権力者をさらに強く惹きつける。
明治初年には元勲たちが早くも熱海で国事を語り、明治14年には伊藤博文と大隈重信による熱海会談も開かれた。明治18年、右大臣・岩倉具視がヨーロッパ式の温泉医学療法を実現する日本初のクアハウス「気館(きゅうきかん)」を建設。さらに温泉療養後のリラクゼーション施設として、「熱海梅園」が伊藤博文の肝煎りで造成される。
これ以降、政財界人が競って熱海に別荘を建てるようになった。鉄道王・根津嘉一郎の別荘「起雲閣」、貿易商・日向利兵衛の別荘で、ブルーノ・タウトの設計による「旧日向別邸」など、今に残る名建築も次々に誕生している。
有力者たちが熱海に滞在する機会が増えるにつれ、当然のことながら熱海を取り巻くインフラも整備されていく。当時、東海道線は小田原から御殿場へと迂回し、熱海を通ることはなかった。そこで熱海へ保養客を運ぶため、明治29年に「豆相人車鉄道」という人力電車が開通。11年後、人力は蒸気機関車に変わり、やがて熱海に別荘を持つ鉄道院総裁らの政治力で、東海道線を熱海に乗り入れさせることになった。日本初の市外電話の公衆電話ボックスが登場したのも、東京と頻繁に連絡を取る各界要人の要望を満たすためにほかならない。
ゆたかな温泉が湧き、冬なお暖かな海辺の避寒地。軽井沢が外国人の手によって開かれた別荘地であることに比べて、歴史上の権力者に愛され続けた熱海は、日本人のステータス感を深く揺さぶる地であることを、歴史がもの語っている。
明治19年に開園した「熱海梅園」。「気館」は焼失したが、「熱海梅園」は梅だけでなく桜・紅葉の名所として、今も熱海の人々の憩いの場となっている(熱海市役所提供)。
昭和9年に日向利兵衛の別荘として建てられた「旧日向別邸」。唯一現存するブルーノ・タウトの和風建築として、重要文化財に指定されている(熱海市役所提供)。
(左)「豆相人車鉄道」の記念碑。定員6名または8名の客車を3名の人夫が押す人力鉄道は、小田原〜熱海間を4時間で結んだ。(右)大湯間欠泉の近く、「気館」跡地に建てられた「市外電話発祥の地」記念の電話ボックス。
桃山地区の別荘分譲地を中心に描いた絵図「熱海温泉理想郷 桃山案内」(熱海市立図書館所蔵)
熱海が惹きつけたのは権力者だけではない。名だたる文豪も、熱海の旅館に長逗留して作品を書き上げ、この地を離れがたく別荘を持つ者が相次いだ。
熱海を一気に有名にした文学作品といえば、明治30年に連載がはじまった尾崎紅葉の「金色夜叉」だろう。貫一・お宮の像は今も熱海海岸に佇んでいる。
熱海に最初に居を構えた著名な文人といえば、坪内逍遥だ。大正9年、熱海・来宮の別荘を「双柿舎」と名づけ、亡くなるまでの15年間を過ごした。シェークスピア全訳はこの双柿舎で完成させている。
「熱海の町に入ってみたまえ。第一踏む地面が暖かいから」と友人に勧められた川端康成は、常春の地で冬を越そうと貸し別荘を探し回った経緯をエッセイに残した。庭から湯気が上がり、玄関のたたきに置いた下駄が温まる・・・と文豪が驚く様子が手に取るように伝わってくる。
昭和17年、谷崎潤一郎も熱海に移り住み、「細雪」を執筆した。その後、伊豆山鳴沢に別荘を購入し、「雪後庵」と名づけている。
根津嘉一郎の別荘「起雲閣」は、昭和22年旅館として営業を開始し、数多の文人が滞在することになった。先の谷崎潤一郎をはじめ、山本有三、志賀直哉、太宰治、舟橋聖一、武田泰淳など、枚挙にいとまがない。引越し魔で有名な志賀直哉は後に伊豆山近くの高台に22番目の住居を構え、7年間を過ごしている。
(左)夜のライトアップに浮かぶ貫一・お宮の像。(右)坪内逍遥の旧邸「双柿舎」。庭にある2本の柿の古木がその名の由来。
(左)谷崎潤一郎や志賀直哉が通った西洋料理店「スコット新館」。名物のビーフシチューで知られ、今も営業中。(右)「熱海三大別荘」と賞賛され、のちに文人たちの定宿となった「起雲閣」。美しい庭園の中に、伝統的な日本建築ときらびやかな洋風建築が建ち並ぶ。
(左)大湯の源泉を絵葉書にしたもの。明治期より大湯は有名な観光スポットだった。(右)かつての伊豆山港。山あいに多くの湯煙が立ちのぼる様子が窺える(熱海市立図書館所蔵)。
(左)万巻上人が開いたといわれる湯前神社。大湯のすぐ前に位置する。(右)伊豆山の麓に今も湧き続ける走り湯。洞窟の奥には実朝が「神の験」と詠んだ源泉があり、高温の湯気に包まれ神秘的な光景を見ることができる。
(左)「熱海七湯」のひとつ・清左衛門の湯。古屋旅館が所有する源泉で、現在も豊富に湧き出ている。
政財界・文壇のお歴々がここまで熱海にこだわった理由のひとつは、1日約26,000トンの湧出量を誇る温泉にある。塩化物温泉と硫酸塩温泉が約9割を占め、保温効果に優れ、神経痛や冷え性などに効果的。弱アルカリ性の湯が肌にやさしいと女性にも好評だ。
熱海に温泉が湧くという古記録はすでに5世紀に登場しているが、伝説上の温泉開きは8世紀。箱根権現の万巻上人が泉脈を海上から山腹に移したとされている。伝説の舞台には湯前神社が建立され、移された源泉が現在の大湯にあたる。
鎌倉時代以降、源頼朝が伊豆山神社を深く信仰したため、熱海の中心は伊豆山にあった。三代将軍実朝は伊豆山神社に詣で、源泉の走り湯を見て、こんな和歌を詠んだ。
「伊豆の国や山の南に出(いづ)る湯のはやきは神の験(しるし)なりけり」
時代は下り、江戸時代はじめの慶長年間のこと。熱海を訪れ、大湯に着目した徳川家康は、京都で病気療養中の吉川広家に大湯の湯を贈っている。四代将軍家綱の時代には江戸城に湯を送る「お湯汲み」がはじまり、八代将軍吉宗時代に特にさかんに行われた。
現在、熱海の源泉として知られているのは「熱海七湯」と呼ばれる7つの温泉。万巻上人が見出し、家康が愛でた大湯には日帰り温泉施設があり、誰でも楽しむことができる。
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